火曜日, 1月 20, 2009

ジョワン(ヨハネ)五島の語る五島列島 (五島崩れ)

セシリア 三永典子
三原カトリック教会 - 2009年1月17日
ジョアン(ヨハネ)五島が語る、五島列島
                             
皆さん、こんにちは。私はジョアン五島です。私の名前を聞いて、「あ!?日本26聖人の1人だ!」と気付いて下さる方があったら嬉しいです。
 私の事を少しお話し致しましょう。私は1578年頃、五島列島で生まれましたが、どの島で生まれたのか、は皆さんご存じ有りません。非常に熱心な切支丹の家庭に育ちました。
  五島列島は、長崎の西約100kmの東シナ海に浮かぶ大小 140余の島々からなっており、そのうち18の島に人が住んでいます。
 福江島、久賀(ひさか)島、奈留(なる)島、若松島、中通島という5つの主な島があり、それが由来で五島列島と呼ばれているのでます。
五島列島へのキリスト教伝来
 1562年の五島は18代領主・宇久淡路守(あわじのかみ)純定(すみさだ)様に治められておりました。この領主が病気になった時、長崎県の西彼杵半島の横瀬浦という所におられたコスメ・デ・トーレス神父様に医者を派遣して欲しいと手紙を書きました。
 キリストの教えを信じなくても、神父様達の南蛮の医術は一目置かれていたのでしょう。
  依頼を受けた神父様は、日本人医師ディエゴ(ディオゴ)さんを五島列島の福江島に遣わし、治療に当たらせました。治療の度にディエゴさんから神様の話を聞 かされたお殿様は、病気が回復すると、デウス(神様)の話が聴きたいと言って来ました。これにより、1566年1月ポルトガル人でイエズス会のルイス・ デ・アルメイダ修道士(イルマン)と、同じく元は琵琶法師であったロレンソ了斎(イルマン)さんが五島に派遣されました。
 
※アルメイダ修道士(1525〜1583) 
※アルメイダ修道士が宇久純定さまに会っているは、日本初の南蛮外科医。 場面。左手前は琵琶を手にするロレンソ了斉  亡くなる4年前に修道士から,  司祭に昇格して天草全島の責任者となった。 天草で帰天。
                     
領主の布教の許可を得て2人は福江島で宣教を始めましたが、お寺の僧侶などからいろいろと妨害を受けて、布教は思うようには進まず、一時は引き上げる寸前 まで追い込まれました。しかし2人の努力の甲斐あって、お殿様の跡継ぎ19代純堯(すみたか・純定の二男)様が洗礼を受けられドン・ルイス(洗礼名)とな られた事から、4千名とも報告される信者が誕生し、教会も建てられたのです。
アルメイダ修道士は日本語が得意ではないので、ロレンソ了斎様が宣教師として抜群の才能を発揮なさったお陰でございましょう。
 このロレンソ了斎様は、山口でフランシスコ・ザビエル神父様に会い、日本人としての初めてのイルマン(修道士)となられたお方です。
 ところが良いことはそう長くは続きませんでした。ドン・ルイス純堯(すみたか)様が亡くなり、20代純玄(すみはる)様の代となりました。 純玄(すみはる)様は先代のドン・ルイス純堯様のお子様ですが、叔父である玄雅(はるまさ・受洗後 背教)様の影響で、切支丹への強い迫害と弾圧を始めたのです。
 この迫害を逃れる為、私たちの家族その他多くの切支丹が長崎に逃れたようで、この方たちにより、長崎に五島町(ごとうまち)と呼ばれる町が作られました。
1587年になると、時の天下人・豊臣秀吉様がバテレン追放令を出し、宣教師の皆さんは国外に追放されて行きました。
 ですが、元々不徹底な追放令である上、当時の日本の中心地から五島は遠くはなれており、この頃の五島は未だ影響は少ないものでした。 五島では、20代純玄 (すみはる)様が朝鮮出兵の際、宇久という姓から五島姓に改名しました。
ジョアン五島 殉教前の父とのやりとり  
長崎に逃れた後の私は、12才の頃から長崎のセミナリヨ(今の小神学校)と志岐(天草)のコレジヨ(今の大神学校)で学びました。そして1594年頃、16才になった私は、モレホン神父様に従って大阪に行き同宿となりました。
 その大阪で1596年12月9日、私は捕まりました。モレホン神父様の身代わりに自らなったのです。捕られられたその日から、長崎に引き回される迄の間に、私はイエズス会に入会する事を正式に願い出ました。
 長崎に引き立てられて行く私たちは、道中 ここ三原のお城の牢屋に一泊しました。その時、トマス小崎さんが母上様に文(ふみ)を書かれた事から、こちら三原教会では特にトマス小崎さんの信仰を尊敬なさっておられますね。
 実は余り知られていない事ですが、あの西坂での処刑の前、わたくしも父上と、このようなやりとりがございました。
  長い旅の末、長崎にたどり着いた私たち一行でございましたが、わたくしは浦上のサン・ラザロ病院の小聖堂にて初誓願を立て、イエズス会の会員として認めて 頂きました。その後、私に会いに来て下さった父上に会う事が出来ましたので、永遠の救いのことを大切になさって下さいと勧めました所、父上は「信仰のため に喜んで神様に命を捧げなさい。お前は神様のために殉教するのだから、お母さんも私もお前と同じように神様の愛の為にのみ生き続ける。」と言ってわたくし を励まして下さいました。私は長崎までの間、祈り続ける為に使っていたロザリオを父上に、そして頭を被う為に使っていた布を形見として母上に渡しました。
 いよいよその時が来ると今度はパシオ神父様が「間もなくすべてのことが終わるので、張り切って行きなさい。」と励まして下さいまし たので、「神父様、ご安心下さい。そのことによく気をつけています。」と私は微笑み、1597年2月5日、私たち26人は西坂の刑場にて処刑されました。 現在の私は五島列島の福江島にある堂崎天主堂に安置されております。そして私たちの殉教の翌年、豊臣秀吉様もお亡くなりになりました。
その頃の私の事をフロイス様は殉教記に「子供の頃から神父達の教えによって育てられ、志岐から1人の神父の同宿として都へ行った。その生活の清さ、単純さ によって皆を満足させ。」と書いて下さいました。私たちの殉教は日本のキリスト教史の初期のものでした。少し私の事が長くなりました。
これからは、その後 時代が明治になり、最後の殉教がここ五島で起きた事までを、お話し致しましょう。
外海から五島列島への移住
1612年、既に駿府の国に隠居しておられた徳川家康様により切支丹禁教令が出され、日本の各地では迫害が本格的に始まりました。
 五島でも1626年 22代五島盛利(もりとし)様の時代になると、本格的な弾圧が始まり、藩では2名の寺社奉行を置いて、教会を破壊し、「踏み絵」を実施する巡回も始まりました。
  それから180余年の月日が流れ、徳川幕府も11代将軍・家斉(いえなり)様の時代になっておりました。
 1797年 五島の領主・五島盛運(もりまさ)様は、長崎の大村藩・藩主・大村純尹(すみこれ)様に「五島は土地が広いのに、人がすくなく未開墾の土地が多いから、農民を移住させて欲しい。」と依頼されました。
 これより少し前の享保年間(1716〜1735)五島藩は、たびたびの暴風や干ばつ・害虫被害による飢饉に襲われ、多くの餓死者を出しました。
 それから後、今度は1789年、天然痘が流行し多くの農民が亡くなって人口が激減してしまったのです。よって大村藩から農民を移住させて、年貢の増収を図る目的でこの様な依頼をされたのでした。
 一方依頼を受けた大村藩では、外海地方に多くの切支丹の農民が住んでおりました。しかし彼らには狭く痩せた土地しか無く、農民達は貧しい暮らしを送っており、大村藩は農民があまりにも細民(さいみん)化するのを防ぐために、極端な産児制限を課していたのです。
  どのような事かと申せば、一家のうちで長男だけを残し、他の子供を生まれたら殺す(間引)事を強要し、村に子供が多ければ、長男と言えども殺すよう命ぜら れる事も有ったのです。神様がその様な事を認めておられませんので、外海に住む切支丹も、このような大罪を犯させられる事に大変心を痛めておりました。
 その上、大村藩では1657年に「郡崩れ」(こおりくずれ)と呼ばれる出来事が起こって以来、切支丹の取り締まりがとても厳しくなっていたのです。
 農民は五島藩からのこの依頼に五島に行けば子供を殺さずに済む!と大変喜びました。また、大村藩にとっても、やっかいな切支丹を五島に送ってしまうことが出来る事は幸いでした。
♪五島へ 五島へ皆行きたがる 五島はやさしや土地までも♪
そう歌われ、1778年には、五島灘を渡って福江島の六方(むかた)の浜に大村藩から最初の移民108人がやって来ました。  五島藩からは1,000人程度と依頼されていたにも関わらず、「我も我も」と移民が続き、とうとう3,000人以上が五島に渡ったのです。
  一方、五島藩はそんなに多くの移民が来るとは思ってもおらず、最初の移住者には、充分な開拓地が与えられたものの、それ以降の人達には、肥えた農地、漁の ある漁港は「地下者(じげもの)」と呼ばれる地元の人が占領しており、移住者は外海の時と同様、山間僻地の痩せた土地や、漁にも不便な海浜に居付いた事か ら「居付き(いつき)」と呼ばれ、虐げられて生活するしか有りませんでした。
 希望に胸を膨らませて移住してきた人達は、先の歌
♪五島へ 五島へと皆行きたがる 五島はやさしや土地までも♪
に続けて、
♪五島へ五島へ皆行きたがる 五島は極楽 行ってみて地獄
五島へ五島へと皆行きたがる 五島は田舎の襟を見る♪
と歌いました。
 移住して差別されていた人達は、それ故に地下者と結婚などすることもなく、切支丹の信仰組織を作る事で、結果的に信仰を守る事が出来たのです。  切支丹禁令後、切支丹たちは先祖からの言い伝え通り、7代待てばパードレ様(神父様)がやって来てくれると信じ、
    ♪ 沖に見ゆるはパーパ(教皇様)の船ようにヤの字(マリア様の意味)の帆が見える♪                      
と歌いながらひたすら待っていました。
フランス寺とパードレ様
  1858年、外国からの圧力により幕府はアメリカ、フランス、ロシア、オランダ、イギリス5ヶ国と修好通商条約を結び長い間の鎖国を解きました。それにより1859年パリ外国宣教会が日本にやって来て、日本に住む外国人居留民の為に 1862年には横浜に、そして1864年には長崎の大浦に教会を建てたのです。
 当時、長崎の人々はこれをフランス寺と呼び、西洋風のこの建物を珍しがって多くの人が見学にやって来ました。しかし日本は未だ切支丹禁制ですので、フランス寺には役人が厳しく見張っておりました。  
見物人の中には、切支丹も紛れてやって来ました。彼らは、もしかするとこれがパードレ様のいる教会なのでは?と思うようになったのです。
 言い伝えによれば
    - 7代たったらパードレ様(神父様)がローマから船でやって来る
   - そのパードレ様は独身である
  - サンタ・マリアの御像を持ってやって来るとされておりました。
 やがてこの事を確かめようと1865年3月17日、厳しい見張りの役人に見つからぬ様、命がけでやって来た切支丹たちがありました。
 フランス寺に入り、「サンタ・マリアの御像はどこ?」とプチジャン神父様に尋ねたのは、普段はとてもおとなしいイザベリナ杉本ゆり(当時53才)さんで、長崎は浜口のお産婆さんでありました。
 フランス寺を訪れる前、浦上の切支丹達は一刻も早くフランス寺が教会かを確かめたくて仕方有りませんでしたが、見つかれば殺されてしまうでしょう。話し プチジャン神父様
 イザベリナ杉本ゆり   合いの意見は分かれておりましたが、普段は大変におとなしいべイザベリナ杉本ゆりさんの「パーデル様が来られたことが確かめられさえすれば、殺されてもよいです。私1人でも行きます。」の発言を受け、その勇気に感動した一同の意見は一致しました。
7代待って五島のキリシタンもパードレ様に出会う
 さて、そのころケガの治療で長崎を訪れていた人に五島の桐の浦出身ガスパル与作(後に 下 村鉄之助。平民は明治3年までは苗字は付けられませんでした。青年がありました。フランス寺の評判を聞き、彼が見学に訪れたのは5月のことでした。訪れ てみると、思いがけないものを目にしたのです。自分たちが秘しながら大切にしている十字架とマリア像がどうどうと掲げてあるでは有りませんか。フランス寺 はこれは教会に違いない!と確信した与作さんは、プチジャン神父様を訪れて確かめてみました。
 急いで五島に帰ったガスパル与作さんは、父ペトロ下村善七さんに許しを得て、再び大村のプチジャン神父様の元を訪れ、給料無し、衣食のみ支給してもらうという条件で、無理矢理、屋根裏に潜んで教理を学び、働かせて貰う事にしました。
  そんな彼に「役人たちに分かったら、すぐに殺されますぞ。」とロカイン神父様が注意しましたが、「かまいません。殺されたら霊魂が助かります。怖ろしくな どありません。」と答えた彼の心は、万里の波を越えて日本にやって来た神父様方と同じように、自分もキリストの教えの布教に尽くしたいという一心でありま した。
 フランス寺で教理の勉強をしたガスパル与作さんは、福江島に戻り島の切支丹に宣教を始めました。五島からは長い間の厳しい迫害に耐え、潜伏しながら信仰を守って来た信者の方々が競うように、小船で次々と五島灘を渡って、大浦にやって来ました。
 プチジャン神父様と連絡を取り、これまで長い間伝承して来た教義を正し、帰島して彼らも伝道を始めたのです。その方々のしっかりと受肉した信仰と勇気が、きっと今の五島の教会の礎となったのでしょう。
 1868年 明治維新のご一新で、切支丹は、きっと基督教は認められるだろうと期待したのですが、明治の新政府は神道国教化の政策を取ることを決め、「五傍の高札」を立てて、引き続き基督教を禁止します。
1661年以降、幕府は切支丹撲滅の手段の1つとして、例外無くあらゆる階層の人々が寺院に所属する寺請制度という宗門法を主流としました。子供が生まれ ると宗門帳に記載して、死者が出れば直ちに僧侶を招き、お経を上げ「切支丹にあらず」の証明を貰わないと、葬儀を出す事も許されませんでした。そして違反 者を出さない為に「五人組」制度がしかれ、お互いに監視をしたのです。この組の中に1人でも切支丹がいれば、その組は処罰されてしまいますし、切支丹がい ることに気づいたらそれを密告すると、報償金を貰う事が出来ました。
 当時の切支丹は表面上は仏教徒を装って暮らしており、年に何度かお寺に参り、僧侶にお布施をし、家には神棚を設け、仏壇を備えてお線香やお花を供えなければなりませんでした。
 フランス寺のパードレ様に会うまでの潜伏切支丹は、確かにこの定めに従っておられました。葬儀には僧侶を呼び、読経中には棺の中の死体を僧侶に背を向けるように納め、自分たちは隣の家などに集まり、お経消しのオラショ(祈り)を唱えていました。 僧侶が帰ると、棺の中から仏教的な品、例えば六文銭などを取り除いてから、埋葬しました。
 しかし大浦のパードレ様は、「異教の神を祀る者には洗礼を授けることも、教理すら教えることは出来ない。」と、おっしるのです。潜伏時代の洗礼が一部無効と判断されたため、切支丹の皆さんはあらたに大浦で洗礼に預かりたいと望んでおりました。
 その様ないきさつから、一部の急進派の皆さんの中に自分たちの信仰を表明しょうとする人が現れて来たのです。    1867年の浦上では僧侶を呼ばずに自分たちで葬式をする自葬が続き、明らかな寺請制度を無視した行為が続き、これには幕府が黙っているハズも有りませんでした。
 翌年の1867年初頭 九州鎮撫総督として着任した澤 宣嘉(よしのぶ)様は、島原の乱(1637〜)の様な一揆を恐れ、大弾圧を具申した結果、浦上一村総流罪が決まります。これは後に「浦上四番崩れ」と呼ばれるようになったものです。
 この流罪で、フランス寺にて「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたイザベリナ杉本ゆり様は広島県の福山に流されて行きました。
信仰表明と「五島崩れ」
  浦上と同じように、五島でも自分の信仰を表明しようとする人が現れ始めていました。持っている神棚や守り札を集めて焼き捨て、「今から神社、仏閣、山伏の ためには一文たりとも出し得ません。」と書いた願書を代官所に差し出し「切支丹宗門だけを立てる」と表明してしまったのです。
 この事件を契機に、明治の新時代が到来したばかりの1868年11月のちに「五島崩れ」と呼ばれる未曾有の迫害が久賀島から始まりました。
  代官所では、彼ら居付きが切支丹というのは分かっている事でしたが、彼ら切支丹は藩の財政からみれば、年貢納めは言うに及ばず、何事にも正直でおとなしい 領民はおりません。ですので切支丹で有る事には目をつぶって来たのです。しかし切支丹である事を表明したとなると話は別です。こんな事が幕府に知れたら、 五島藩はお取りつぶしにされてしまうでしょう。「藩を乱すとは何事ぞ!」と23名が呼び出され、折檻されても、誰一人としてひるむ事も、棄教する事もしま せん。藩の面子はまるつぶれの上、幕府への申し開きすら出来ない状況に、役人たちは怒りと憎しみを込め、来る日も来る日も水責め、算木責めとあらゆる拷問 を加えました。
※ 青竹が折れるほど殴り続け、木炭を手の上に乗せて息を吹きかけ火を大きくする火責め、木材を三角に切り三本並べて、この上に正座させて五六石という大人2人がやっと持ち上げられるくらいの重い石を膝の上に積む算木責め等の拷問が加えられました。
   切支丹たちは、堅い信仰を守っているだけなのですが、役人たちから見るとそれはもうただ頑固者でしかないのです。
   役人たちの怒りは収まらず、やがて久賀島全集落の切支丹200余名が松ヶ浦に集められ捕縛され、牢屋に押し込められました。当初は23名を収容するために信者の家を急造して作った牢屋に、200余名が収容されたのですからたまりません。
    僅か6坪ばかりの土間を、男牢と女牢に区分して200人もの切支丹を押し込め、雨戸も閉め切りました。トイレも無いので垂れ流しの劣悪な環境。これは1枚 の畳の広さに、15人もの人が押し合いへし合いいる状況で、身動きも出来ません。地に足が届かず、宙に浮いたままの人も居れば、人に乗りかかられて苦しむ 方もおられました。食べ物と言えば、自分たちの畑から役人が掘りだして来た小さなサツマイモが朝晩1切れという有様。子供のいる人は自分の分を子供に与え たり、乳飲み子を抱えた母親は満足にお乳も出ません。栄養失調により、皆の髪の毛は抜けて行きます。ひもじさの余り顔をかきむしられ、血まみれの母親もお りました。
   この様な状況で、初めに79才の助市さんが牢の中で亡くなりましたが、5昼夜も捨て置かれ、大勢の人に押しつぶさ れ、踏みつぶされ、その亡骸は殆ど平たくなってしまいました。牢内の不潔さから蛆がわき始め、蛆は生きている人の体をはい上がり、10才のマリアたきさん は下腹を咬みやぶられて「わたしはパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さんさようなら。」と言って亡くなりました。その妹で8才のマリアさもさ ん、5才のテカラもよさんも牢内で亡くなってしまいました。」
   五島で、切支丹を掴まえて拷問にかけるお役人に俵 慶馬というお 方がおられました。俵様はお役目の時、水の浦(福江島)で可愛い切支丹の女性を無理矢理 福江に連れて帰り、自分の妻にしました。その後、2人の間に生ま れたお子様に男女の双子がありました。昔はこのように双子が生まれるのは嫌がられており、特に男の子と女の子の双子は嫌がられておりました。
  それで慶馬様は妻に女の赤ん坊を殺すようにと命じたのですが、切支丹の妻はそのような大罪を犯すことをおそれ、水の浦の親戚に頼んで育てて貰う為、大坂峠 でその女の子を親戚に託しました。運命というのは何と不思議なものでしょう。その慶馬様のひ孫からは、神父様とシスターが誕生しておられます。
  さて、松ヶ浦の牢では入牢から8ヶ月後、主立った人を除いて放免されました。牢屋の中では39人が亡くなり、牢屋から出て直ぐに3人が亡くなりました。
 この劣悪な牢はその後「牢屋のさこ」(さことは狭いという意味)と呼ばれ、その跡には現在、牢屋のさこ殉教記念聖堂が建てられております。
  牢屋を放免された人々は家に帰っても、家財道具一切が没収されており、何一つ残されていなかった事から、食べるにも事欠き、葛の根を掘りこれを食糧とし、ほかにもとろろや山芋、あざみの根などを掘って、かろうじて命のつないでおられました。
地下者による迫害
 牢での拷問は役人による迫害でしたが、五島の切支丹は地下者による拷問にも耐えなければなりませんでした。
 五島藩は藩の中でも小藩の中の小藩で、地下者たちと言えども裕福ではありません。そんな彼らには、移住してきた居付きの切支丹達は、いつまで経ってもよそ 者であり、役人たちから取り締まられている人ので、地下者は居付きの切支丹を見下し、彼らに対して好き放題しても良いと思っていたのは、長い切支丹弾圧の 歴史のせいでしょう。
   そんな事から、地下者たちは切支丹を掴まえ拷問を加えた後「明日はもっとヒドイ拷問を加えるぞ!」と脅し ます。すると拷問を恐れて逃げ隠れした切支丹の家に行き、家財道具一式、挙げ句は畑の作物まで持ち去ってしまうという事が多発しておりましたが、役人たち は見て見ぬふりをしておりました。
鯛ノ浦の六人切り
 やがてこんな大きな事件が起きてしまいました。
1870年(明治3年)1月の夜半、中通島の鯛ノ浦という所で、4人の荒武者が新しい刀の切れ味をためしてみようとある切支丹の家に押し入り、中にいた1人の子供を除き、母親のお腹の中の胎児から家族6人を惨殺しました。
翌日この惨状に気付いた者の届け出により、福江島から俵 慶馬様が現場検証にやって来ました。流石の慶馬様もこの無残な現場に驚き「こんなに可愛らしい幼 児をよくもまあ斬れたものだな、大根でも切るように。」と憤慨されました。やがて加害者4人は捕まり、半年後に切腹を命ぜられました。
迫害の終わり
  鎖国からの開国後、日本も諸外国との交流を始めておりましたが、渡欧していた岩倉具視使節団に対して日本国内でのこの弾圧事件が取り上げられ、「キリスト 教を弾圧するような野蛮な国とは付き合えない。」と、使節団は行く先々で批判され、1873年1月岩倉使節団長はヨーロッパより「キリシタン禁教の停止」 を政府に要請する電報を打電して来ました。またもや外圧により、日本政府は明治6年(1873年)切支丹禁止の高札を降ろし、浦上の人々に浦上村に帰って 良いと布令を出しました。
 高札は降ろされましたが、この時点では未だ信仰の自由は完全に保証されていた訳ではなく、政府は「黙認」しているという状態でした。本当に信仰の自由が認められるのは明治22年(1898年)の大日本帝国憲法とういものが成立するまで待たなくてはなりませんでした。
    現在の五島列島には50もの教会が有ります。それはこの厳しい迫害にも耐えて、信仰の自由を得た切支丹たちが「まず祈りの場を!」と、神様を賛美しなが ら、自分たちの手で作り上げたものです。この方達の様に 皆さんにも命よりも大切な、「ゆずれないもの」を持っておられるでしょうか?今日 私たちに残さ れた五島列島のあのすばらしい教会郡にはこのような歴史がある事、命をかけて信仰を守った人が居ることを、どうか皆さん、忘れないで下さい。
 参考文献
・聖母の騎士社  聖母文庫  26聖人と長崎物語   結城了悟著
・聖母の騎士社  聖母文庫  漂白の果て       水浦久之著
・聖母の騎士社  聖母文庫  長崎のキリシタン    片岡弥吉著
・聖母の騎士    聖母文庫  キリシタン紀行     森本季子著
・聖母の騎士社  聖母文庫  西九州キリシタンの度 小崎登明著
・長崎文献社    旅する長崎学
・長崎文献社    復活の島  五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書
・カトリック長崎大司教区    まるちれす
・新潮社     「旅」2008年10月号
・カトリック大山教会 神の恩恵に支えられた先祖の旅路 丸尾武雄著
・日本カトリック刊行会 切支丹の復活   浦川和三郎著
・五島観光連盟  祈りの島を旅する  五島列島教会巡り
・NHK出版    NHK美の壷 長崎の教会
スペシャルサンクス 五島にお住まいの方に資料をお借り致しました。心より感謝!
中通島の青砂ヶ浦教会       
50戸あまりの信者が建設費を捻出し、教会を完成させました。
女性や子供も労働奉仕に加わり、手作業で資材を運んでいる図。

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