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3月, 2005の投稿を表示しています

キリストの過ぎ越し、人の過ぎ越し

キリストの過ぎ越し、人の過ぎ越し 救い主の受難は人間の命の救いです。キリストが私たちのために自らすすんで死んでくださったのは、キリストを信じるわたしたちがとこしえに生きるようになるためです。キリストがしばらくの間わたしたちのような存在になってくださったのは、わたしたちがキリストの永遠のいのちにあずかるという約束を受けて、キリストとともに永遠に生きるようになるためです。 これこそが、天上の秘儀の恩恵、過越の賜物、望ましい年ごとの祭日、新しい世界の夜明けなのです。 人々は天上の恩恵の賜物によって聖とされ、霊的な秘跡の偉大な秘儀によって養われるのです。 (古代の復活祭の教えから)

愛の文明

愛の文明 ここまでの考察を結ぶにあたって、わたしはもう一度繰り返す必要を感じています。世界に真の平和を築くためには、正義が愛のうちに成就しなければならないからです。確かに、法は平和へと続く最初の道で、人々は法を守るよう教えられなければなりません。しかし、正義が愛によって補完されていなければ、道の終わりにたどり着くことはできないのです。正義と愛は時に、相反する力のように思えることがあります。しかし実際、それらはある一つの現実の二つの様相にほかならないのです。 人間の生のこの二つの様相は、互いに補い合うことで成り立つのです。歴史上の事実は、このことが真実であることを証明しています。それはいかに正義が、恨みや憎しみ、あげくには残虐性からも逃れられなかったことを示しているのです。正義そのものだけでは不十分なのです。まさに正義は、それが愛というより深い力に開かれていなければ、自らを裏切ることさえもあります。 こうした理由から、わたしはしばしば、キリスト者の皆さんとすべての善意の人々に、個人や人々の間の問題を解決するためにはゆるしが必要であることを思い起こすよう呼びかけてきました。ゆるしなしには正義はあり得ません。わたしの思いが、特にパレスチナと中東地域で続く危機的状況に向かう中、ここで今、もう一度繰り返します。かの地域の人々にあまりにも長い間苦しみをもたらしてきた重大な問題の解決は、単純な正義の論理を乗り越え、ゆるしの論理にも開かれた決断が下されない限り、見いだされることはありません。 キリスト者は、神が愛ゆえに人との関係に入られたことを知っています。そして神は愛を、人からの応答として待っておられるのです。ですから愛は、人間の間に可能な、最も崇高で、最も気高い形態の関係なのです。愛は人間の生のすべての分野を活性化し、国際秩序にまで広がらなければなりません。「愛の文明」が支配する人類社会だけが、真の恒久的な平和を享受できるのです。 新年の初めにあたって、すべての言語と宗教、文化のうちに生活する皆さんに向かって、古くからの格言を、もう一度繰り返したいと思います。「愛はすべてを征服する」。そうです、全世界の兄弟姉妹の皆さん。最後には愛が勝利するのです。この勝利が早まるよう一人ひとりが努力しましょう。それは、すべての人が心の中で、最も

キリストの聖体

キリストの聖体 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。 信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」 と言われた。 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 ヨハネの福音書(6章32~69)

聖霊降臨

聖霊降臨 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 ヨハネによる福音書(20:19-23) 人々は恐れている。いろいろなことで恐れている。人間関係のこと、家族問題のこと、憎まれること、など。 愛していたイエズス様がもうそばにいないという寂しさに苦しみ、恐れていた弟子たちは、イエズス様の母マリアと心合わせて熱心に祈っていた。 イエズス様への思いは弟子たちの心から離れない。恐れていても、心の中で思い続ける。「その時」、神からの聖霊が下った。 私たちもいろいろな困難の中にあっても、イエズス様への思いとイエズス様の母マリアと共に弛まない祈りで、心を開き聖霊を受けましょう 。

キリストのうちに神の子となる

キリストのうちに神の子となる あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたにはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。 ペトロの第一手紙から (01:22-2:10) 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を

隠遁者エスタニスラオ・マリア神父の略暦

1915年9月12日 エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた 1920年 4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする 1927年 12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。 1928年8月5日 モンセラート志願者の学院に入会する 1933年 修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く 1934年6月 御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた 1934年8月6日 初誓願 1936年7月18日 スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難 1937年12月8日 スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される 1938年1月 ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける 1939年1月15日 隠遁者になるゆるしを頂く 1939年1月17日 ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する 1939年9月 モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる 1941年8月10日 モンセラートで司祭に叙階される 1941-1961年 修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される 1961年2月7日 腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り 1961年4月27日 許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める 1961-1965年 霊的な師父としてますます外部

隠遁者エスタニスラオ・マリア神父の略暦

1915年9月12日 エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた 1920年 4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする 1927年 12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。 1928年8月5日 モンセラート志願者の学院に入会する 1933年 修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く 1934年6月 御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた 1934年8月6日 初誓願 1936年7月18日 スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難 1937年12月8日 スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される 1938年1月 ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける 1939年1月15日 隠遁者になるゆるしを頂く 1939年1月17日 ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する 1939年9月 モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる 1941年8月10日 モンセラートで司祭に叙階される 1941-1961年 修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される 1961年2月7日 腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り 1961年4月27日 許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める 1961-1965年 霊的な師父としてますます外部

エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父

私の師父 87歳の命を得て、エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父がその命の3分の一部、最後の29年は日本に隠遁者として生きました。この方について語るために、まず略歴を伝わります。 少々、師父の命の言葉、物語、生き方について書き続けるつもりです。 それは、神様の霊的な軌跡の現しているかたについて語ることなので、決して簡単ではありません。見たこと、知っていたこと、聞いたことを伝える知恵を主に頼みながら、証人として、今日から書くつもりです

聖ベネディクト

聖ベネディクト (480年ごろー547年) (祝日7月11日) ベネディクトは、西暦480年にイタリアのヌルシアに生まれ、ローマで勉強をしたが、世界に歩み始めたベネヂクトは、どんなか人は罪へはっしていることを見て、世の知恵をあきらめ,神の知恵をえらびました。ローマを去って、ある隠修士ロマヌスに出会い、ロマヌスの協力により、スビアコと呼ばれる山間の洞窟に隠遁生活を始めました。その時から、何年もの間、隠修士ロマヌスは自分のパンをベネヂクトに分けて、若いベネヂクトは支えられ、神様と一人で隠遁生活を営んだ。 試練を乗り越えたベネディクトの存在は人に知られて、主から知恵を与えられたベネディクトの名声は高まり、彼に倣おうと多くの弟子が集まったので近くに12の修道院を建てた。その中で聖マウロと聖プラシドは有名で、ローマの人が自分の息子を若いベネディクトに捧げた青年です。この青年はいつもベネディクトの側にいました。 やがてモンテ・カシーノに修道院を建て、それは西ヨーロッパの歴史上の中で有名な修道院となりました。また彼は、共同生活を送る修道者のために、戒律を書きました。修道者の生き方や修道生活の送り方などについて分かりやすく述べられており、しかも人の心に響くものでありました。ベネディクト会則は、修道生活の制度の基礎を築き、西方修道院制の歴史で重要な役割を果たすものとなりました。 これが今日私たちが「神の平和」に基づいていると言う聖ベネディクトの戒律の霊性は、後世、世界各地に広がるベネディクト修道院の種となった。聖ベネディクトの霊性は、修道者の周辺にも輝き、大勢の人々が『神を探し求める』深い霊性に呼ばれて、この人たちは世の中で主の弟子として生きているのです。

聖アントニオ修道院長

聖アントニオ修道院長 (251年ごろ-356年) 祝日1月17日 聖アントニオは、エジプトの裕福な地主の家に生まれ、信仰深く育てられた。17歳で両親に先立たれた後、キリストに従う呼び出しを聞いて、遺産を貧しい人々に与え、砂漠に行き隠遁生活を始めた。祈りと黙想をし、そして手仕事によってわずかな日用の糧を得ていた。彼は、孤独と祈りのなかにあって、若いころの誘惑を克服していった。 キリストの道を歩み聖霊に満たされた師父アントニオの模範は広まり、砂漠で大勢の人は隠遁生活を現代まで営むことになった。これはキリスト教修道生活の基盤となり、隠遁者の弟子たちは多くなったときから次の段階の共同での修道生活も教会の中でキリストに従う生き方が豊かになった。 聖アントニオは、アレキサンドリアの司教聖アタナシオと親交があり、アリウス派の異端に対して正統信仰を擁護した。聖アタナシオが著わした『聖アントニオ伝』(357年ころ) は、修道生活の理念を東洋から西洋に伝えて、師父聖アントニオは「修道生活の父」といわれている。

キリストのうちに神の子となる

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キリストのうちに神の子となる あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたにはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」 のであり、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神

日本205福者殉教者

日本205福者殉教者 (1867年7月7日に列福された) 205人の中の一人、スペインの福者ドミンゴ・カステレット神父は何年間も、身を隠しながら、信者を励まし、1628年9月8日西坂で火あぶり刑で殉教。 このホームページで知らせた隠遁者エスタニスラオ・マリア神父はこの福者と同じ町エスパレゲラ市で生まれた。 日本205福者殉教者についてもっと知りたい場合、 日本二十六聖人記念館公式ホーム・ページ を見て下さい。

聖トマス小崎

http://www.benedicite.net/montserrat 聖トマス小崎 ミゲル・小崎の子で大阪の修道院で育ちました。将来はりっぱな説教師になる才能をもっていました。 十四歳。ミゲルの子トマスが三原で母親へあてた手紙は死んだ後、彼の服の中で見つかりました 「ぼくはトマス小崎です。なつかしい母上のことを想いながら手紙を書きました“ 母上様、私たちは長崎で十字架につけられるようになっています。私のことも父上のことも、何一つご心配なさいませんように。天国で母上様のお出でをお待ち 申しております。人が母上にいかなることをしようとも、忍耐し、すべての人に多くの愛をお示しください。それから、弟マンショとフィリポを異教徒の手にゆ だねることのないように、お取り計らいください。私は、母上様のことを神様にゆだねます”」

日本26聖人殉教者

日本26聖人殉教者 (1597年殉教) 1549年、聖フランシスコ・ザビエルが日本でイエス・キリストの福音を述べ始めました。信仰は日本全 国に広まっていった。1593年、フランシスコ会の指導で京都での宣教も実り、信徒は増し、30万人を超えたといわれている。 1596年に、京都、大阪周辺のフランシスコ会士、イエズス会士、キリスト信徒ら24名を捕え、死刑を命じた。その中には、幼い子どもの信徒3人もいた。 彼らは、京都、堺、大阪市内を引き回された後、長崎までの道のりを歩かされた。その間、彼らの世話をした2人の信徒も自ら一行に加わった。長崎の 西坂に26の十字架が立てられた。はりつけになった彼らは、祈り、聖歌唱えながら殉教を遂げた。彼らの死は日本の教会の霊的な土台となり、殉教の場所はキ リシタンの巡礼地となった。 1862年6月8日に聖人の列に加えられた。 26聖人についての詳細は 日本二十六聖人記念館ホームページ を見てください。