火曜日, 1月 20, 2009

ジョワン(ヨハネ)五島の語る五島列島 (五島崩れ)

セシリア 三永典子
三原カトリック教会 - 2009年1月17日
ジョアン(ヨハネ)五島が語る、五島列島
                             
皆さん、こんにちは。私はジョアン五島です。私の名前を聞いて、「あ!?日本26聖人の1人だ!」と気付いて下さる方があったら嬉しいです。
 私の事を少しお話し致しましょう。私は1578年頃、五島列島で生まれましたが、どの島で生まれたのか、は皆さんご存じ有りません。非常に熱心な切支丹の家庭に育ちました。
  五島列島は、長崎の西約100kmの東シナ海に浮かぶ大小 140余の島々からなっており、そのうち18の島に人が住んでいます。
 福江島、久賀(ひさか)島、奈留(なる)島、若松島、中通島という5つの主な島があり、それが由来で五島列島と呼ばれているのでます。
五島列島へのキリスト教伝来
 1562年の五島は18代領主・宇久淡路守(あわじのかみ)純定(すみさだ)様に治められておりました。この領主が病気になった時、長崎県の西彼杵半島の横瀬浦という所におられたコスメ・デ・トーレス神父様に医者を派遣して欲しいと手紙を書きました。
 キリストの教えを信じなくても、神父様達の南蛮の医術は一目置かれていたのでしょう。
  依頼を受けた神父様は、日本人医師ディエゴ(ディオゴ)さんを五島列島の福江島に遣わし、治療に当たらせました。治療の度にディエゴさんから神様の話を聞 かされたお殿様は、病気が回復すると、デウス(神様)の話が聴きたいと言って来ました。これにより、1566年1月ポルトガル人でイエズス会のルイス・ デ・アルメイダ修道士(イルマン)と、同じく元は琵琶法師であったロレンソ了斎(イルマン)さんが五島に派遣されました。
 
※アルメイダ修道士(1525〜1583) 
※アルメイダ修道士が宇久純定さまに会っているは、日本初の南蛮外科医。 場面。左手前は琵琶を手にするロレンソ了斉  亡くなる4年前に修道士から,  司祭に昇格して天草全島の責任者となった。 天草で帰天。
                     
領主の布教の許可を得て2人は福江島で宣教を始めましたが、お寺の僧侶などからいろいろと妨害を受けて、布教は思うようには進まず、一時は引き上げる寸前 まで追い込まれました。しかし2人の努力の甲斐あって、お殿様の跡継ぎ19代純堯(すみたか・純定の二男)様が洗礼を受けられドン・ルイス(洗礼名)とな られた事から、4千名とも報告される信者が誕生し、教会も建てられたのです。
アルメイダ修道士は日本語が得意ではないので、ロレンソ了斎様が宣教師として抜群の才能を発揮なさったお陰でございましょう。
 このロレンソ了斎様は、山口でフランシスコ・ザビエル神父様に会い、日本人としての初めてのイルマン(修道士)となられたお方です。
 ところが良いことはそう長くは続きませんでした。ドン・ルイス純堯(すみたか)様が亡くなり、20代純玄(すみはる)様の代となりました。 純玄(すみはる)様は先代のドン・ルイス純堯様のお子様ですが、叔父である玄雅(はるまさ・受洗後 背教)様の影響で、切支丹への強い迫害と弾圧を始めたのです。
 この迫害を逃れる為、私たちの家族その他多くの切支丹が長崎に逃れたようで、この方たちにより、長崎に五島町(ごとうまち)と呼ばれる町が作られました。
1587年になると、時の天下人・豊臣秀吉様がバテレン追放令を出し、宣教師の皆さんは国外に追放されて行きました。
 ですが、元々不徹底な追放令である上、当時の日本の中心地から五島は遠くはなれており、この頃の五島は未だ影響は少ないものでした。 五島では、20代純玄 (すみはる)様が朝鮮出兵の際、宇久という姓から五島姓に改名しました。
ジョアン五島 殉教前の父とのやりとり  
長崎に逃れた後の私は、12才の頃から長崎のセミナリヨ(今の小神学校)と志岐(天草)のコレジヨ(今の大神学校)で学びました。そして1594年頃、16才になった私は、モレホン神父様に従って大阪に行き同宿となりました。
 その大阪で1596年12月9日、私は捕まりました。モレホン神父様の身代わりに自らなったのです。捕られられたその日から、長崎に引き回される迄の間に、私はイエズス会に入会する事を正式に願い出ました。
 長崎に引き立てられて行く私たちは、道中 ここ三原のお城の牢屋に一泊しました。その時、トマス小崎さんが母上様に文(ふみ)を書かれた事から、こちら三原教会では特にトマス小崎さんの信仰を尊敬なさっておられますね。
 実は余り知られていない事ですが、あの西坂での処刑の前、わたくしも父上と、このようなやりとりがございました。
  長い旅の末、長崎にたどり着いた私たち一行でございましたが、わたくしは浦上のサン・ラザロ病院の小聖堂にて初誓願を立て、イエズス会の会員として認めて 頂きました。その後、私に会いに来て下さった父上に会う事が出来ましたので、永遠の救いのことを大切になさって下さいと勧めました所、父上は「信仰のため に喜んで神様に命を捧げなさい。お前は神様のために殉教するのだから、お母さんも私もお前と同じように神様の愛の為にのみ生き続ける。」と言ってわたくし を励まして下さいました。私は長崎までの間、祈り続ける為に使っていたロザリオを父上に、そして頭を被う為に使っていた布を形見として母上に渡しました。
 いよいよその時が来ると今度はパシオ神父様が「間もなくすべてのことが終わるので、張り切って行きなさい。」と励まして下さいまし たので、「神父様、ご安心下さい。そのことによく気をつけています。」と私は微笑み、1597年2月5日、私たち26人は西坂の刑場にて処刑されました。 現在の私は五島列島の福江島にある堂崎天主堂に安置されております。そして私たちの殉教の翌年、豊臣秀吉様もお亡くなりになりました。
その頃の私の事をフロイス様は殉教記に「子供の頃から神父達の教えによって育てられ、志岐から1人の神父の同宿として都へ行った。その生活の清さ、単純さ によって皆を満足させ。」と書いて下さいました。私たちの殉教は日本のキリスト教史の初期のものでした。少し私の事が長くなりました。
これからは、その後 時代が明治になり、最後の殉教がここ五島で起きた事までを、お話し致しましょう。
外海から五島列島への移住
1612年、既に駿府の国に隠居しておられた徳川家康様により切支丹禁教令が出され、日本の各地では迫害が本格的に始まりました。
 五島でも1626年 22代五島盛利(もりとし)様の時代になると、本格的な弾圧が始まり、藩では2名の寺社奉行を置いて、教会を破壊し、「踏み絵」を実施する巡回も始まりました。
  それから180余年の月日が流れ、徳川幕府も11代将軍・家斉(いえなり)様の時代になっておりました。
 1797年 五島の領主・五島盛運(もりまさ)様は、長崎の大村藩・藩主・大村純尹(すみこれ)様に「五島は土地が広いのに、人がすくなく未開墾の土地が多いから、農民を移住させて欲しい。」と依頼されました。
 これより少し前の享保年間(1716〜1735)五島藩は、たびたびの暴風や干ばつ・害虫被害による飢饉に襲われ、多くの餓死者を出しました。
 それから後、今度は1789年、天然痘が流行し多くの農民が亡くなって人口が激減してしまったのです。よって大村藩から農民を移住させて、年貢の増収を図る目的でこの様な依頼をされたのでした。
 一方依頼を受けた大村藩では、外海地方に多くの切支丹の農民が住んでおりました。しかし彼らには狭く痩せた土地しか無く、農民達は貧しい暮らしを送っており、大村藩は農民があまりにも細民(さいみん)化するのを防ぐために、極端な産児制限を課していたのです。
  どのような事かと申せば、一家のうちで長男だけを残し、他の子供を生まれたら殺す(間引)事を強要し、村に子供が多ければ、長男と言えども殺すよう命ぜら れる事も有ったのです。神様がその様な事を認めておられませんので、外海に住む切支丹も、このような大罪を犯させられる事に大変心を痛めておりました。
 その上、大村藩では1657年に「郡崩れ」(こおりくずれ)と呼ばれる出来事が起こって以来、切支丹の取り締まりがとても厳しくなっていたのです。
 農民は五島藩からのこの依頼に五島に行けば子供を殺さずに済む!と大変喜びました。また、大村藩にとっても、やっかいな切支丹を五島に送ってしまうことが出来る事は幸いでした。
♪五島へ 五島へ皆行きたがる 五島はやさしや土地までも♪
そう歌われ、1778年には、五島灘を渡って福江島の六方(むかた)の浜に大村藩から最初の移民108人がやって来ました。  五島藩からは1,000人程度と依頼されていたにも関わらず、「我も我も」と移民が続き、とうとう3,000人以上が五島に渡ったのです。
  一方、五島藩はそんなに多くの移民が来るとは思ってもおらず、最初の移住者には、充分な開拓地が与えられたものの、それ以降の人達には、肥えた農地、漁の ある漁港は「地下者(じげもの)」と呼ばれる地元の人が占領しており、移住者は外海の時と同様、山間僻地の痩せた土地や、漁にも不便な海浜に居付いた事か ら「居付き(いつき)」と呼ばれ、虐げられて生活するしか有りませんでした。
 希望に胸を膨らませて移住してきた人達は、先の歌
♪五島へ 五島へと皆行きたがる 五島はやさしや土地までも♪
に続けて、
♪五島へ五島へ皆行きたがる 五島は極楽 行ってみて地獄
五島へ五島へと皆行きたがる 五島は田舎の襟を見る♪
と歌いました。
 移住して差別されていた人達は、それ故に地下者と結婚などすることもなく、切支丹の信仰組織を作る事で、結果的に信仰を守る事が出来たのです。  切支丹禁令後、切支丹たちは先祖からの言い伝え通り、7代待てばパードレ様(神父様)がやって来てくれると信じ、
    ♪ 沖に見ゆるはパーパ(教皇様)の船ようにヤの字(マリア様の意味)の帆が見える♪                      
と歌いながらひたすら待っていました。
フランス寺とパードレ様
  1858年、外国からの圧力により幕府はアメリカ、フランス、ロシア、オランダ、イギリス5ヶ国と修好通商条約を結び長い間の鎖国を解きました。それにより1859年パリ外国宣教会が日本にやって来て、日本に住む外国人居留民の為に 1862年には横浜に、そして1864年には長崎の大浦に教会を建てたのです。
 当時、長崎の人々はこれをフランス寺と呼び、西洋風のこの建物を珍しがって多くの人が見学にやって来ました。しかし日本は未だ切支丹禁制ですので、フランス寺には役人が厳しく見張っておりました。  
見物人の中には、切支丹も紛れてやって来ました。彼らは、もしかするとこれがパードレ様のいる教会なのでは?と思うようになったのです。
 言い伝えによれば
    - 7代たったらパードレ様(神父様)がローマから船でやって来る
   - そのパードレ様は独身である
  - サンタ・マリアの御像を持ってやって来るとされておりました。
 やがてこの事を確かめようと1865年3月17日、厳しい見張りの役人に見つからぬ様、命がけでやって来た切支丹たちがありました。
 フランス寺に入り、「サンタ・マリアの御像はどこ?」とプチジャン神父様に尋ねたのは、普段はとてもおとなしいイザベリナ杉本ゆり(当時53才)さんで、長崎は浜口のお産婆さんでありました。
 フランス寺を訪れる前、浦上の切支丹達は一刻も早くフランス寺が教会かを確かめたくて仕方有りませんでしたが、見つかれば殺されてしまうでしょう。話し プチジャン神父様
 イザベリナ杉本ゆり   合いの意見は分かれておりましたが、普段は大変におとなしいべイザベリナ杉本ゆりさんの「パーデル様が来られたことが確かめられさえすれば、殺されてもよいです。私1人でも行きます。」の発言を受け、その勇気に感動した一同の意見は一致しました。
7代待って五島のキリシタンもパードレ様に出会う
 さて、そのころケガの治療で長崎を訪れていた人に五島の桐の浦出身ガスパル与作(後に 下 村鉄之助。平民は明治3年までは苗字は付けられませんでした。青年がありました。フランス寺の評判を聞き、彼が見学に訪れたのは5月のことでした。訪れ てみると、思いがけないものを目にしたのです。自分たちが秘しながら大切にしている十字架とマリア像がどうどうと掲げてあるでは有りませんか。フランス寺 はこれは教会に違いない!と確信した与作さんは、プチジャン神父様を訪れて確かめてみました。
 急いで五島に帰ったガスパル与作さんは、父ペトロ下村善七さんに許しを得て、再び大村のプチジャン神父様の元を訪れ、給料無し、衣食のみ支給してもらうという条件で、無理矢理、屋根裏に潜んで教理を学び、働かせて貰う事にしました。
  そんな彼に「役人たちに分かったら、すぐに殺されますぞ。」とロカイン神父様が注意しましたが、「かまいません。殺されたら霊魂が助かります。怖ろしくな どありません。」と答えた彼の心は、万里の波を越えて日本にやって来た神父様方と同じように、自分もキリストの教えの布教に尽くしたいという一心でありま した。
 フランス寺で教理の勉強をしたガスパル与作さんは、福江島に戻り島の切支丹に宣教を始めました。五島からは長い間の厳しい迫害に耐え、潜伏しながら信仰を守って来た信者の方々が競うように、小船で次々と五島灘を渡って、大浦にやって来ました。
 プチジャン神父様と連絡を取り、これまで長い間伝承して来た教義を正し、帰島して彼らも伝道を始めたのです。その方々のしっかりと受肉した信仰と勇気が、きっと今の五島の教会の礎となったのでしょう。
 1868年 明治維新のご一新で、切支丹は、きっと基督教は認められるだろうと期待したのですが、明治の新政府は神道国教化の政策を取ることを決め、「五傍の高札」を立てて、引き続き基督教を禁止します。
1661年以降、幕府は切支丹撲滅の手段の1つとして、例外無くあらゆる階層の人々が寺院に所属する寺請制度という宗門法を主流としました。子供が生まれ ると宗門帳に記載して、死者が出れば直ちに僧侶を招き、お経を上げ「切支丹にあらず」の証明を貰わないと、葬儀を出す事も許されませんでした。そして違反 者を出さない為に「五人組」制度がしかれ、お互いに監視をしたのです。この組の中に1人でも切支丹がいれば、その組は処罰されてしまいますし、切支丹がい ることに気づいたらそれを密告すると、報償金を貰う事が出来ました。
 当時の切支丹は表面上は仏教徒を装って暮らしており、年に何度かお寺に参り、僧侶にお布施をし、家には神棚を設け、仏壇を備えてお線香やお花を供えなければなりませんでした。
 フランス寺のパードレ様に会うまでの潜伏切支丹は、確かにこの定めに従っておられました。葬儀には僧侶を呼び、読経中には棺の中の死体を僧侶に背を向けるように納め、自分たちは隣の家などに集まり、お経消しのオラショ(祈り)を唱えていました。 僧侶が帰ると、棺の中から仏教的な品、例えば六文銭などを取り除いてから、埋葬しました。
 しかし大浦のパードレ様は、「異教の神を祀る者には洗礼を授けることも、教理すら教えることは出来ない。」と、おっしるのです。潜伏時代の洗礼が一部無効と判断されたため、切支丹の皆さんはあらたに大浦で洗礼に預かりたいと望んでおりました。
 その様ないきさつから、一部の急進派の皆さんの中に自分たちの信仰を表明しょうとする人が現れて来たのです。    1867年の浦上では僧侶を呼ばずに自分たちで葬式をする自葬が続き、明らかな寺請制度を無視した行為が続き、これには幕府が黙っているハズも有りませんでした。
 翌年の1867年初頭 九州鎮撫総督として着任した澤 宣嘉(よしのぶ)様は、島原の乱(1637〜)の様な一揆を恐れ、大弾圧を具申した結果、浦上一村総流罪が決まります。これは後に「浦上四番崩れ」と呼ばれるようになったものです。
 この流罪で、フランス寺にて「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねたイザベリナ杉本ゆり様は広島県の福山に流されて行きました。
信仰表明と「五島崩れ」
  浦上と同じように、五島でも自分の信仰を表明しようとする人が現れ始めていました。持っている神棚や守り札を集めて焼き捨て、「今から神社、仏閣、山伏の ためには一文たりとも出し得ません。」と書いた願書を代官所に差し出し「切支丹宗門だけを立てる」と表明してしまったのです。
 この事件を契機に、明治の新時代が到来したばかりの1868年11月のちに「五島崩れ」と呼ばれる未曾有の迫害が久賀島から始まりました。
  代官所では、彼ら居付きが切支丹というのは分かっている事でしたが、彼ら切支丹は藩の財政からみれば、年貢納めは言うに及ばず、何事にも正直でおとなしい 領民はおりません。ですので切支丹で有る事には目をつぶって来たのです。しかし切支丹である事を表明したとなると話は別です。こんな事が幕府に知れたら、 五島藩はお取りつぶしにされてしまうでしょう。「藩を乱すとは何事ぞ!」と23名が呼び出され、折檻されても、誰一人としてひるむ事も、棄教する事もしま せん。藩の面子はまるつぶれの上、幕府への申し開きすら出来ない状況に、役人たちは怒りと憎しみを込め、来る日も来る日も水責め、算木責めとあらゆる拷問 を加えました。
※ 青竹が折れるほど殴り続け、木炭を手の上に乗せて息を吹きかけ火を大きくする火責め、木材を三角に切り三本並べて、この上に正座させて五六石という大人2人がやっと持ち上げられるくらいの重い石を膝の上に積む算木責め等の拷問が加えられました。
   切支丹たちは、堅い信仰を守っているだけなのですが、役人たちから見るとそれはもうただ頑固者でしかないのです。
   役人たちの怒りは収まらず、やがて久賀島全集落の切支丹200余名が松ヶ浦に集められ捕縛され、牢屋に押し込められました。当初は23名を収容するために信者の家を急造して作った牢屋に、200余名が収容されたのですからたまりません。
    僅か6坪ばかりの土間を、男牢と女牢に区分して200人もの切支丹を押し込め、雨戸も閉め切りました。トイレも無いので垂れ流しの劣悪な環境。これは1枚 の畳の広さに、15人もの人が押し合いへし合いいる状況で、身動きも出来ません。地に足が届かず、宙に浮いたままの人も居れば、人に乗りかかられて苦しむ 方もおられました。食べ物と言えば、自分たちの畑から役人が掘りだして来た小さなサツマイモが朝晩1切れという有様。子供のいる人は自分の分を子供に与え たり、乳飲み子を抱えた母親は満足にお乳も出ません。栄養失調により、皆の髪の毛は抜けて行きます。ひもじさの余り顔をかきむしられ、血まみれの母親もお りました。
   この様な状況で、初めに79才の助市さんが牢の中で亡くなりましたが、5昼夜も捨て置かれ、大勢の人に押しつぶさ れ、踏みつぶされ、その亡骸は殆ど平たくなってしまいました。牢内の不潔さから蛆がわき始め、蛆は生きている人の体をはい上がり、10才のマリアたきさん は下腹を咬みやぶられて「わたしはパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さんさようなら。」と言って亡くなりました。その妹で8才のマリアさもさ ん、5才のテカラもよさんも牢内で亡くなってしまいました。」
   五島で、切支丹を掴まえて拷問にかけるお役人に俵 慶馬というお 方がおられました。俵様はお役目の時、水の浦(福江島)で可愛い切支丹の女性を無理矢理 福江に連れて帰り、自分の妻にしました。その後、2人の間に生ま れたお子様に男女の双子がありました。昔はこのように双子が生まれるのは嫌がられており、特に男の子と女の子の双子は嫌がられておりました。
  それで慶馬様は妻に女の赤ん坊を殺すようにと命じたのですが、切支丹の妻はそのような大罪を犯すことをおそれ、水の浦の親戚に頼んで育てて貰う為、大坂峠 でその女の子を親戚に託しました。運命というのは何と不思議なものでしょう。その慶馬様のひ孫からは、神父様とシスターが誕生しておられます。
  さて、松ヶ浦の牢では入牢から8ヶ月後、主立った人を除いて放免されました。牢屋の中では39人が亡くなり、牢屋から出て直ぐに3人が亡くなりました。
 この劣悪な牢はその後「牢屋のさこ」(さことは狭いという意味)と呼ばれ、その跡には現在、牢屋のさこ殉教記念聖堂が建てられております。
  牢屋を放免された人々は家に帰っても、家財道具一切が没収されており、何一つ残されていなかった事から、食べるにも事欠き、葛の根を掘りこれを食糧とし、ほかにもとろろや山芋、あざみの根などを掘って、かろうじて命のつないでおられました。
地下者による迫害
 牢での拷問は役人による迫害でしたが、五島の切支丹は地下者による拷問にも耐えなければなりませんでした。
 五島藩は藩の中でも小藩の中の小藩で、地下者たちと言えども裕福ではありません。そんな彼らには、移住してきた居付きの切支丹達は、いつまで経ってもよそ 者であり、役人たちから取り締まられている人ので、地下者は居付きの切支丹を見下し、彼らに対して好き放題しても良いと思っていたのは、長い切支丹弾圧の 歴史のせいでしょう。
   そんな事から、地下者たちは切支丹を掴まえ拷問を加えた後「明日はもっとヒドイ拷問を加えるぞ!」と脅し ます。すると拷問を恐れて逃げ隠れした切支丹の家に行き、家財道具一式、挙げ句は畑の作物まで持ち去ってしまうという事が多発しておりましたが、役人たち は見て見ぬふりをしておりました。
鯛ノ浦の六人切り
 やがてこんな大きな事件が起きてしまいました。
1870年(明治3年)1月の夜半、中通島の鯛ノ浦という所で、4人の荒武者が新しい刀の切れ味をためしてみようとある切支丹の家に押し入り、中にいた1人の子供を除き、母親のお腹の中の胎児から家族6人を惨殺しました。
翌日この惨状に気付いた者の届け出により、福江島から俵 慶馬様が現場検証にやって来ました。流石の慶馬様もこの無残な現場に驚き「こんなに可愛らしい幼 児をよくもまあ斬れたものだな、大根でも切るように。」と憤慨されました。やがて加害者4人は捕まり、半年後に切腹を命ぜられました。
迫害の終わり
  鎖国からの開国後、日本も諸外国との交流を始めておりましたが、渡欧していた岩倉具視使節団に対して日本国内でのこの弾圧事件が取り上げられ、「キリスト 教を弾圧するような野蛮な国とは付き合えない。」と、使節団は行く先々で批判され、1873年1月岩倉使節団長はヨーロッパより「キリシタン禁教の停止」 を政府に要請する電報を打電して来ました。またもや外圧により、日本政府は明治6年(1873年)切支丹禁止の高札を降ろし、浦上の人々に浦上村に帰って 良いと布令を出しました。
 高札は降ろされましたが、この時点では未だ信仰の自由は完全に保証されていた訳ではなく、政府は「黙認」しているという状態でした。本当に信仰の自由が認められるのは明治22年(1898年)の大日本帝国憲法とういものが成立するまで待たなくてはなりませんでした。
    現在の五島列島には50もの教会が有ります。それはこの厳しい迫害にも耐えて、信仰の自由を得た切支丹たちが「まず祈りの場を!」と、神様を賛美しなが ら、自分たちの手で作り上げたものです。この方達の様に 皆さんにも命よりも大切な、「ゆずれないもの」を持っておられるでしょうか?今日 私たちに残さ れた五島列島のあのすばらしい教会郡にはこのような歴史がある事、命をかけて信仰を守った人が居ることを、どうか皆さん、忘れないで下さい。
 参考文献
・聖母の騎士社  聖母文庫  26聖人と長崎物語   結城了悟著
・聖母の騎士社  聖母文庫  漂白の果て       水浦久之著
・聖母の騎士社  聖母文庫  長崎のキリシタン    片岡弥吉著
・聖母の騎士    聖母文庫  キリシタン紀行     森本季子著
・聖母の騎士社  聖母文庫  西九州キリシタンの度 小崎登明著
・長崎文献社    旅する長崎学
・長崎文献社    復活の島  五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書
・カトリック長崎大司教区    まるちれす
・新潮社     「旅」2008年10月号
・カトリック大山教会 神の恩恵に支えられた先祖の旅路 丸尾武雄著
・日本カトリック刊行会 切支丹の復活   浦川和三郎著
・五島観光連盟  祈りの島を旅する  五島列島教会巡り
・NHK出版    NHK美の壷 長崎の教会
スペシャルサンクス 五島にお住まいの方に資料をお借り致しました。心より感謝!
中通島の青砂ヶ浦教会       
50戸あまりの信者が建設費を捻出し、教会を完成させました。
女性や子供も労働奉仕に加わり、手作業で資材を運んでいる図。

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土曜日, 4月 15, 2006

愛しているイエズす様へ ・ 2006年4月15日


愛するイエズす様よ!

あなたは、私の命!
あなたは、私の愛!
あなたは、私の深い喜び!
あなたは、私の歩む勇気!
あなたは、私がさびしさにおちたときの抱かれている友人!
あなたは、弱い私の中の徳!
あなたは、目の見えない私の光!
あなたは、分からない私の知恵
あなたは、命の歩みの中、右左を知らない私の生きる目標
あなたは、眠っている私の朝日
あなたは、この小さい私の限りのない誠の存在
あなたは、今も、いつまでも、私の道、私の心理、私の命です。
最後に、あなたは私の本当の存在です!

福音のマンが




イエズス・キリスト様について知りたいと思うならば、まんがのリンクを開いてみてください。

http://gospelcomics.com/japanese/index.html

主イエス・キリストの過ぎ越しはおめでとうございます!

主はまことに語復活されました。アレルヤ、アレルヤ!

水曜日, 3月 16, 2005

キリストの過ぎ越し、人の過ぎ越し


キリストの過ぎ越し、人の過ぎ越し

救い主の受難は人間の命の救いです。キリストが私たちのために自らすすんで死んでくださったのは、キリストを信じるわたしたちがとこしえに生きるようになるためです。キリストがしばらくの間わたしたちのような存在になってくださったのは、わたしたちがキリストの永遠のいのちにあずかるという約束を受けて、キリストとともに永遠に生きるようになるためです。

これこそが、天上の秘儀の恩恵、過越の賜物、望ましい年ごとの祭日、新しい世界の夜明けなのです。

人々は天上の恩恵の賜物によって聖とされ、霊的な秘跡の偉大な秘儀によって養われるのです。

(古代の復活祭の教えから)

愛の文明

愛の文明

ここまでの考察を結ぶにあたって、わたしはもう一度繰り返す必要を感じています。世界に真の平和を築くためには、正義が愛のうちに成就しなければならないからです。確かに、法は平和へと続く最初の道で、人々は法を守るよう教えられなければなりません。しかし、正義が愛によって補完されていなければ、道の終わりにたどり着くことはできないのです。正義と愛は時に、相反する力のように思えることがあります。しかし実際、それらはある一つの現実の二つの様相にほかならないのです。

人間の生のこの二つの様相は、互いに補い合うことで成り立つのです。歴史上の事実は、このことが真実であることを証明しています。それはいかに正義が、恨みや憎しみ、あげくには残虐性からも逃れられなかったことを示しているのです。正義そのものだけでは不十分なのです。まさに正義は、それが愛というより深い力に開かれていなければ、自らを裏切ることさえもあります。

こうした理由から、わたしはしばしば、キリスト者の皆さんとすべての善意の人々に、個人や人々の間の問題を解決するためにはゆるしが必要であることを思い起こすよう呼びかけてきました。ゆるしなしには正義はあり得ません。わたしの思いが、特にパレスチナと中東地域で続く危機的状況に向かう中、ここで今、もう一度繰り返します。かの地域の人々にあまりにも長い間苦しみをもたらしてきた重大な問題の解決は、単純な正義の論理を乗り越え、ゆるしの論理にも開かれた決断が下されない限り、見いだされることはありません。

キリスト者は、神が愛ゆえに人との関係に入られたことを知っています。そして神は愛を、人からの応答として待っておられるのです。ですから愛は、人間の間に可能な、最も崇高で、最も気高い形態の関係なのです。愛は人間の生のすべての分野を活性化し、国際秩序にまで広がらなければなりません。「愛の文明」が支配する人類社会だけが、真の恒久的な平和を享受できるのです。

新年の初めにあたって、すべての言語と宗教、文化のうちに生活する皆さんに向かって、古くからの格言を、もう一度繰り返したいと思います。「愛はすべてを征服する」。そうです、全世界の兄弟姉妹の皆さん。最後には愛が勝利するのです。この勝利が早まるよう一人ひとりが努力しましょう。それは、すべての人が心の中で、最も深く望んでいることだからです。

2003年12月8日バチカンにて

キリストの聖体


キリストの聖体

イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。

わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」 と言われた。 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

ヨハネの福音書(6章32~69)

聖霊降臨

聖霊降臨
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

ヨハネによる福音書(20:19-23)

人々は恐れている。いろいろなことで恐れている。人間関係のこと、家族問題のこと、憎まれること、など。
愛していたイエズス様がもうそばにいないという寂しさに苦しみ、恐れていた弟子たちは、イエズス様の母マリアと心合わせて熱心に祈っていた。
イエズス様への思いは弟子たちの心から離れない。恐れていても、心の中で思い続ける。「その時」、神からの聖霊が下った。
私たちもいろいろな困難の中にあっても、イエズス様への思いとイエズス様の母マリアと共に弛まない祈りで、心を開き聖霊を受けましょう

キリストのうちに神の子となる

キリストのうちに神の子となる

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。

しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」 従って、この石は、信じているあなたがたにはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

ペトロの第一手紙から (01:22-2:10)
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネによる福音書( 3:13,16-17)

隠遁者エスタニスラオ・マリア神父の略暦

1915年9月12日
エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた

1920年
4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする

1927年
12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。

1928年8月5日
モンセラート志願者の学院に入会する

1933年
修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く

1934年6月
御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた

1934年8月6日
初誓願

1936年7月18日
スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難

1937年12月8日
スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される

1938年1月
ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける

1939年1月15日
隠遁者になるゆるしを頂く

1939年1月17日
ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する

1939年9月
モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる

1941年8月10日
モンセラートで司祭に叙階される

1941-1961年
修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される

1961年2月7日
腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り

1961年4月27日
許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める

1961-1965年
霊的な師父としてますます外部からも求められる 第2バチカン公会議典礼委員会のメンバーに任命される

ある11月15日
タボル山の光のビジョンの経験を神からいただく

1965年9月14日
モンセラート山にある聖十字架の庵に引っ越し

1965-1972年
霊的な師父としてますます外部からも求められる 第2バチカン公会議典礼委員会のメンバーに任命される

1967年5月
モンセラートから、聖地、日本、帰天までに,ついて来た弟子は初めて出会い、エスタニスラウ・マリア神父はその師父となる

1970年9月29日
この弟子はモンセラート聖山で隠遁生活を始める

1972年12月14日
師父は聖地にむかいバルセロナからスペインを去る

1972年12月24日
ベトレヘムへ到着、近くのベイットサホゥルの洞穴で隠遁生活を続ける

1973年8月15日
弟子はは聖地に到着。師父に新しい名前は任命意される

1974年7月1日
師父は若いでしとともに三人でイスラエルから日本に向かう道中でインドのリシケスを伺う

1974年7月21日
日本に到着

1974年9月29日
隠遁生活を野崎島、舟森で始める すぐ、人りずつ、3人スペインからついてくる。その中にもう一人の弟子、ポルトガルの隠遁者マヌエル神父

1975年3月26日
弟子の荘厳誓願

1978年7月11日
この時までに、姉一人とブラさ二人は、ヨロッパに帰る

1978年9月15日
台風で船森の庵が壊される

1978年9月29日
舟森をでて、中通島、福崎の古い家で隠遁生活を続ける

1984年6月
中通島 大浦へ引っ越し

1986年9月6日
広島県へ引っ越し、庵はモンセラートの聖母・四方庵と命名

1996年
白内障手術に続き、骨折1ヶ月半入院

2000年6月
腎臓悪化

2003年2月21日
四方庵を去って大阪からモンセラートへもどる

2003年3月29日
モンセラート修道院で帰天 平和と感謝に約まれて聖山にある修道院のお墓で葬られた。


隠遁者エスタニスラオ・マリア神父の略暦

1915年9月12日
エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた

1920年
4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする

1927年
12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。

1928年8月5日
モンセラート志願者の学院に入会する

1933年
修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く

1934年6月
御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた

1934年8月6日
初誓願

1936年7月18日
スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難

1937年12月8日
スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される

1938年1月
ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける

1939年1月15日
隠遁者になるゆるしを頂く

1939年1月17日
ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する

1939年9月
モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる

1941年8月10日
モンセラートで司祭に叙階される

1941-1961年
修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される

1961年2月7日
腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り

1961年4月27日
許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める

1961-1965年
霊的な師父としてますます外部からも求められる 第2バチカン公会議典礼委員会のメンバーに任命される

ある11月15日
タボル山の光のビジョンの経験を神からいただく

1965年9月14日
モンセラート山にある聖十字架の庵に引っ越し

1965-1972年
霊的な師父としてますます外部からも求められる 第2バチカン公会議典礼委員会のメンバーに任命される

1967年5月
モンセラートから、聖地、日本、帰天までに,ついて来た弟子は初めて出会い、エスタニスラウ・マリア神父はその師父となる

1970年9月29日
この弟子はモンセラート聖山で隠遁生活を始める

1972年12月14日
師父は聖地にむかいバルセロナからスペインを去る

1972年12月24日
ベトレヘムへ到着、近くのベイットサホゥルの洞穴で隠遁生活を続ける

1973年8月15日
弟子はは聖地に到着。師父に新しい名前は任命意される

1974年7月1日
師父は若いでしとともに三人でイスラエルから日本に向かう道中でインドのリシケスを伺う

1974年7月21日
日本に到着

1974年9月29日
隠遁生活を野崎島、舟森で始める すぐ、人りずつ、3人スペインからついてくる。その中にもう一人の弟子、ポルトガルの隠遁者マヌエル神父

1975年3月26日
弟子の荘厳誓願

1978年7月11日
この時までに、姉一人とブラさ二人は、ヨロッパに帰る

1978年9月15日
台風で船森の庵が壊される

1978年9月29日
舟森をでて、中通島、福崎の古い家で隠遁生活を続ける

1984年6月
中通島 大浦へ引っ越し

1986年9月6日
広島県へ引っ越し、庵はモンセラートの聖母・四方庵と命名

1996年
白内障手術に続き、骨折1ヶ月半入院

2000年6月
腎臓悪化

2003年2月21日
四方庵を去って大阪からモンセラートへもどる

2003年3月29日
モンセラート修道院で帰天 平和と感謝に約まれて聖山にある修道院のお墓で葬られた。


エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父


私の師父

87歳の命を得て、エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父がその命の3分の一部、最後の29年は日本に隠遁者として生きました。この方について語るために、まず略歴を伝わります。

少々、師父の命の言葉、物語、生き方について書き続けるつもりです。

それは、神様の霊的な軌跡の現しているかたについて語ることなので、決して簡単ではありません。見たこと、知っていたこと、聞いたことを伝える知恵を主に頼みながら、証人として、今日から書くつもりです

聖ベネディクト

聖ベネディクト

(480年ごろー547年)

(祝日7月11日)

ベネディクトは、西暦480年にイタリアのヌルシアに生まれ、ローマで勉強をしたが、世界に歩み始めたベネヂクトは、どんなか人は罪へはっしていることを見て、世の知恵をあきらめ,神の知恵をえらびました。ローマを去って、ある隠修士ロマヌスに出会い、ロマヌスの協力により、スビアコと呼ばれる山間の洞窟に隠遁生活を始めました。その時から、何年もの間、隠修士ロマヌスは自分のパンをベネヂクトに分けて、若いベネヂクトは支えられ、神様と一人で隠遁生活を営んだ。

試練を乗り越えたベネディクトの存在は人に知られて、主から知恵を与えられたベネディクトの名声は高まり、彼に倣おうと多くの弟子が集まったので近くに12の修道院を建てた。その中で聖マウロと聖プラシドは有名で、ローマの人が自分の息子を若いベネディクトに捧げた青年です。この青年はいつもベネディクトの側にいました。

やがてモンテ・カシーノに修道院を建て、それは西ヨーロッパの歴史上の中で有名な修道院となりました。また彼は、共同生活を送る修道者のために、戒律を書きました。修道者の生き方や修道生活の送り方などについて分かりやすく述べられており、しかも人の心に響くものでありました。ベネディクト会則は、修道生活の制度の基礎を築き、西方修道院制の歴史で重要な役割を果たすものとなりました。

これが今日私たちが「神の平和」に基づいていると言う聖ベネディクトの戒律の霊性は、後世、世界各地に広がるベネディクト修道院の種となった。聖ベネディクトの霊性は、修道者の周辺にも輝き、大勢の人々が『神を探し求める』深い霊性に呼ばれて、この人たちは世の中で主の弟子として生きているのです。

聖アントニオ修道院長

聖アントニオ修道院長

(251年ごろ-356年)

祝日1月17日

聖アントニオは、エジプトの裕福な地主の家に生まれ、信仰深く育てられた。17歳で両親に先立たれた後、キリストに従う呼び出しを聞いて、遺産を貧しい人々に与え、砂漠に行き隠遁生活を始めた。祈りと黙想をし、そして手仕事によってわずかな日用の糧を得ていた。彼は、孤独と祈りのなかにあって、若いころの誘惑を克服していった。

キリストの道を歩み聖霊に満たされた師父アントニオの模範は広まり、砂漠で大勢の人は隠遁生活を現代まで営むことになった。これはキリスト教修道生活の基盤となり、隠遁者の弟子たちは多くなったときから次の段階の共同での修道生活も教会の中でキリストに従う生き方が豊かになった。

聖アントニオは、アレキサンドリアの司教聖アタナシオと親交があり、アリウス派の異端に対して正統信仰を擁護した。聖アタナシオが著わした『聖アントニオ伝』(357年ころ) は、修道生活の理念を東洋から西洋に伝えて、師父聖アントニオは「修道生活の父」といわれている。

水曜日, 3月 02, 2005

キリストのうちに神の子となる

キリストのうちに神の子となる

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。

しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

従って、この石は、信じているあなたがたにはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」 のであり、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招 き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

ペトロの第一手紙から (01:22-2:10


天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書( 3:13,16-17)

日本205福者殉教者

日本205福者殉教者
(1867年7月7日に列福された)

205人の中の一人、スペインの福者ドミンゴ・カステレット神父は何年間も、身を隠しながら、信者を励まし、1628年9月8日西坂で火あぶり刑で殉教。

このホームページで知らせた隠遁者エスタニスラオ・マリア神父はこの福者と同じ町エスパレゲラ市で生まれた。

日本205福者殉教者についてもっと知りたい場合、日本二十六聖人記念館公式ホーム・ページを見て下さい。

聖トマス小崎

http://www.benedicite.net/montserrat

聖トマス小崎

ミゲル・小崎の子で大阪の修道院で育ちました。将来はりっぱな説教師になる才能をもっていました。

十四歳。ミゲルの子トマスが三原で母親へあてた手紙は死んだ後、彼の服の中で見つかりました

「ぼくはトマス小崎です。なつかしい母上のことを想いながら手紙を書きました“ 母上様、私たちは長崎で十字架につけられるようになっています。私のことも父上のことも、何一つご心配なさいませんように。天国で母上様のお出でをお待ち 申しております。人が母上にいかなることをしようとも、忍耐し、すべての人に多くの愛をお示しください。それから、弟マンショとフィリポを異教徒の手にゆ だねることのないように、お取り計らいください。私は、母上様のことを神様にゆだねます”」

日本26聖人殉教者

日本26聖人殉教者
(1597年殉教)

1549年、聖フランシスコ・ザビエルが日本でイエス・キリストの福音を述べ始めました。信仰は日本全 国に広まっていった。1593年、フランシスコ会の指導で京都での宣教も実り、信徒は増し、30万人を超えたといわれている。

1596年に、京都、大阪周辺のフランシスコ会士、イエズス会士、キリスト信徒ら24名を捕え、死刑を命じた。その中には、幼い子どもの信徒3人もいた。

彼らは、京都、堺、大阪市内を引き回された後、長崎までの道のりを歩かされた。その間、彼らの世話をした2人の信徒も自ら一行に加わった。長崎の 西坂に26の十字架が立てられた。はりつけになった彼らは、祈り、聖歌唱えながら殉教を遂げた。彼らの死は日本の教会の霊的な土台となり、殉教の場所はキ リシタンの巡礼地となった。

1862年6月8日に聖人の列に加えられた。

26聖人についての詳細は日本二十六聖人記念館ホームページを見てください。

土曜日, 8月 28, 2004

長崎の殉教者への巡礼

教の歴史は何世紀前から、始まりました。

その中心に立っている姿は、宣教の成功ではなく、死に克った26聖人の殉教した姿なのです。

長崎の二十六聖人の記念

昨日は、若い巡礼者はうちに来てくださいました。若さとたくましさに満たされて、主とともに歩んで続ける。
主はわたしたちとともにおられ、万物とともにおられる。

キリスト様に賛美!

金曜日, 8月 27, 2004

モザンビークのこと

30年前、姉が二人宣教の国で、簡素生活する修道院を祖率されて、モザンビークに行きました。彼女たちのことを語ります。、

モザンビークのナンプラ市の聖母修道院の歩み

30年前、モザンビークの国が独立する直前、スペインの聖母のしもべ修道女会から5人の修道女は、モザンビークの教会に頼まれて、モザンビークへ観想修道院を創立するために派遣された。

すぐに始まった16年間の内戦を乗り越えて、次第に国は苦しみと貧しさから立ち上がるときが来た。修道女たちは、ずっと、周りの人々とともに苦しみを耐え、スペインからの助けを受けながら、廻りの困っている人にすべてを分け合って生き続け、やっと人々と共に平和を味わうことができたのです。

十字架に架けられたイエズス様の御姿は、そばにいる多くの困っている人々を目の当たりに見て、できる限りのことを助けてくださったのです。

その中で、孤児を預かり育てること、病人の治療、貧しい人に食料、心を病む人に愛と慰めを、心からシスターたちは尽くし続けました。

いっしょに苦しみ、いっしょに喜び、現代まで生き続けてきたのです。


木曜日, 8月 26, 2004

友人

友人

主の御祝いでした。86日 懐かしい主イエズすの御変容の日には、毎年と同じように感謝の日でありました。

私は一人で過ごすではなく、友人は来ました。パウロさんとともに良い思い出分かち合いました。懐かしい人のことを語り合い、その
心の優しさと光につづみ包まれて、良い一日でした。

友達は、宝物。
心の兄弟は、永遠に!

神に感謝

日曜日

主の日

日曜日になると教会へ行きます。

昨日でも、台風の風と雨の中で、車のところまで道を歩いた。足は草にぬれても、私の歩きは毎日曜日と同じ、楽しくて歩く。

「今日は特別な典礼。感謝の祭儀にさんかするだから」心の底から幸せを感じている。
イエズス様との出会い。特別の出会いです。愛の婚礼の賛歌です。主イエズス様は
この世の終わりまで、わたしたちとともにいることは、感謝の祭儀羽行われている時に、実現になる。

私は神様の愛情に約まれて生きているのは、とても幸せです!!!

神に感謝!


モンセラートの聖母の庵

神に感謝!

今日から、、私にとってとても難しいでありながら、日本語で書けることを始まります。

外国人なので、書けるのでしょうかと・・・