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主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる

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  待降節第1主日 聖書のみ言葉の味わい 主よ立ち帰ってください。 どうか、天を裂いて降ってくださいあなたのほかにありません。 イザヤの預言者   63 ・16-17,19. 64・2-7 「待降節」という表現は本来 「到来」 を意味する言葉です。この典礼季節に 2000 年前 にイエスが世に来られたことを 思い起こしながら 、 終末に栄光 のうちに再び来られることに思いを馳せ、そして、毎日私たちを、 日常生活の中で訪れる イエスをふさわしく迎えるために、 新たに準備 します。つまり、救い主の最初の来臨に向かう長期の準備に心を合わせながら、再臨だけでなく、今のイエスの到来への熱い待望を新たにするのです。この 3 つの理由から、 待降節は愛、喜びと希望に包まれた待望の時 であることが明らかになってきます。 今週は第一朗読朗読は、 救い主の到来を願うイスラエルの民の叫び声 です。当時バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、自由になったことにうれしく思った一方、破壊された神殿とエルサレムの都を見て、失望して、神様に見捨てられたと思いました。こうした絶望の中、イザヤ預言者は神の救いを願い、神ご自身の到来を祈り求めます。 厳しい状態に置かれたイスラエルの民のために神の助けを求めるイザヤ預言者は、救いの神は 「 あなたのほかにありません 」と述べ、その到来を待ち望みます。イザヤの待望には、「希望」と「待機」と「待ち受け」とが混じり合っています。なぜなら、神様が自分たちの父と信じるからです 「典礼聖歌  137 番:すべての人の救いを願いわたしはあなたを待ち望む」。 皆さん、今年待降節を始める中で、私たちの心は 不安 でいっぱいでしょう。クリスマスはどうなるのか、忘年会は例年通りに開かれるのか。いつワクチンができるのか。経済は大丈夫なのか。ロックダウンでされるのか、などの疑問、おそらく頭の中で浮かんでいるでしょう。また、新型コロナウイルスの感染が広がる中で、新型コロナウイルスの感染拡大による不安の中で、第一朗読のイスラエルの民のように、主が来てくださるようにと私たちが祈っています。「 主よ立ち帰ってください。どうか、天を裂いて降ってください。 あな

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ジョワン五島の語る五島列島

   五島・中之島・仲知(ちゅうち)教会ステンドグラス 教会建設に尽力した地元の人々も、ステンドグラスのモチーフになっています ジョワン (ヨハネ) 五島の語る五島列島 (五島崩れ)   セシリア 三永典子 三原カトリック教会 - 2009年1月17日 ジョアン五島と五島列島  皆さん、こんにちは。私はジョアン五島です。私の名前を聞いて、「あ!?日本26聖人の1人だ!」と気付いて下さる方があったら嬉しいです。  私の事を少しお話し致しましょう。私は1578年頃、五島列島で生まれましたが、どの島で生まれたのか、は皆さんご存じ有りません。非常に熱心な切支丹の家庭に育ちました。   五島列島は、長崎の西約100kmの東シナ海に浮かぶ大小 140余の島々からなっており、そのうち18の島に人が住んでいます。  福江島、久賀(ひさか)島、奈留(なる)島、若松島、中通島という5つの主な島があり、それが由来で五島列島と呼ばれているのでます。 五島列島へのキリスト教伝来  1562年の五島は18代領主・宇久淡路守(あわじのかみ)純定(すみさだ)様に治められておりました。この領主が病気になった時、長崎県の西彼杵半島の横瀬浦という所におられたコスメ・デ・トーレス神父様に医者を派遣して欲しいと手紙を書きました。  キリストの教えを信じなくても、神父様達の南蛮の医術は一目置かれていたのでしょう。    依頼を受けた神父様は、日本人医師ディエゴ(ディオゴ)さんを五島列島の福江島に遣わし、治療に当たらせました。治療の度にディエゴさんから神様の話を聞かされたお殿様は、病気が回復すると、デウス(神様)の話が聴きたいと言って来ました。これにより、1566年1月ポルトガル人でイエズス会のルイス・デ・アルメイダ修道士(イルマン)と、同じく元は琵琶法師であったロレンソ了斎(イルマン)さんが五島に派遣されました。     ※アルメイダ修道士(1525〜1583)  ※アルメイダ修道士が宇久純定さまに会っているは、日本初の南蛮外科医。     場面。 左手前は琵琶を手にするロレンソ了斉  亡くなる4年前に修道士から  司祭に昇格して天草全島の責任者となった。  天草で帰天。                   

人の子はその栄光の座に着く。そして、すべての国の民をより分ける。

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年間第 32 主日   本日のミサと行事 l   9 : 30 :ミサ(日本語)、ミサ後 大掃除   l   今後の予定とお知らせ ①    11 月 28 日 (土) 11 : 00  司祭叙階式(広島幟町教会) ②    11 月 29 日 (日)備後 3 教会司祭ローテ-ション 三原教会 9 : 30  ミサ司式者は福山教会の猪口神父 ③    12 月 5 日  18 : 00 テぜ-の祈り(尾道教会) ④    12 月 6 日 待降節黙想会 (肥塚神父) ⑤    今週中止になるミサ   12 月 1 日(火) 6 : 15     聖書のみ言葉の味わい 羊飼いとして私たちを治める神様 (エゼキエルの預言 34・11-12、15-17)     一年間、キリストの生涯を記念し祈ってきて、今日、「王であるキリスト」の祭日を祝います。教会は「王であるキリスト」の祭日をとおして、 イエスが、宇宙を含む万物を支配していることを祝います 。また、この祭日は、 1925 年に 、教皇ピオ 11 世によって定められました。当時ヨーロッパのドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニ、ソビエトでスターリンが 独裁体制 を固めようとしました。   また、社会の 世俗化 が急速に進んでいたことと 、世界のいろいろな対立の中では、教皇ピオ 11 世は愛と平和に基づいたイエスの支配を祈り求めるために、この祭日を定められたと考えられています 。かつて、 10 月最後の日曜日に祝われていましたが、典礼刷新後( 1969 )、年間最後の主日に祝われることになりました。   教皇ピオ 11 世が理由とした独裁体制などは、今日の第一朗読の背景でもあります。イスラエルは牧者のように民を集め、導いたダビデ王のもとに発展し、立派な王国となりました。ところが、ダビデ王の後に来た王たちが、 神の教えにしたがって治めず 、自分の利益追求に夢中になったことで、 貧しい人への搾取 、 貧富の格差 、 社会不正義 が生じただけでなく、イスラエルが様々な 戦争 に巻き込まれたことで、エルサレムの神殿が壊され、民が バビロンで捕囚 さ

お前は、少しものに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ

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  年間第 32 主日 本日のミサと行事 l   9 : 30 :ミサ(日本語)、 10 : 30-12 : 00  バーザ (日)七五三の祈り (ミサ中)、フレデリックによる「喜びを持って福音書を読む」聖書講座 (ミサ後)     今後の予定とお知らせ ①    11 月 16 日(月)- 17 日(火) 10 : 00  気の会  ②    11 月 15 日(日)- 22 日(日):聖書週間 ③    11 月 28 日  11 : 00  司祭叙階式(広島幟町教会) ④    12 月 5 日  18 : 00 テぜ-の祈り(尾道教会) ⑤    12 月 6 日 待降節黙想会 (肥塚神父) ⑥    今週中止になるミサ   17 日(火) 6 : 15 、 21 日(土) 6 : 15 ⑦    ご協力をいただきまして、先週のバーザを無事に終えることができました。皆様、本当にありがとうございました。   聖書のみ言葉の味わい 神様のたまものの管理者 (マタイ25・14-30)   復活されたイエスの到来は、初代教会の一つの問題でした 。例えば、パウロの教えを受け、熱心になったテサロニケの教会の人たちは、主の来臨がすぐだと思い、イエスを出会うために仕事などをやめた人もいたそうです。パウロは、今日の第二朗読から聞いたように、その誤解を直そうとしました。しかし、時代が経つにつれて、イエスの来臨遅延が意識されてきました。 今週の福音はイエスの到来が遅れている時代、イエスの復活と来臨の間を生きる者が取るべき態度を教えます 。   今週の福音箇所には二つの時代に置かれた人たちの問題を取り上げています。 まず 、 イエスの 時代の社会指導たち のことです。 かられは神がアブラハムから与えてくださった啓示とメッセ―ジを自分の狭い民族の中に閉じ込め、ユダヤ民族という土の中と、律法という形式の中に埋めてしまいました。 日常の行いを細かく規定する法律を作り上げ、それにしばられ、神様の愛、あわれみ、いつくしみなどを忘れてしまい、罪人や徴税人に対して冷たくなってしまいました。   次、 初代教会の人々のイエスの来臨に対する薄い考え です。先ほど申し上げたように、イエスの復活から離れれば離れるほどイエスの来臨への